Office_Minami
劇衆南組の軌跡
1993年 旗揚げインタビューより。
日常に収まり切れない肉体と精神を表現したい
南 新地
( 劇衆 海鮮問屋 南組 )
INTERVIEW
シティ情報ふくおか
■プロフィール/1972年頃、世界放浪の旅に出る。1978年に福岡に立ち寄った際、支那海東と出会い、彼の主宰する『劇衆 上海素麺工場』で役者として活躍。今回新たな挑戦としてテント以外の空間で『大国への道』の作・演出を手掛け、出演する。
かつて福岡のテント芝居で、人気を集めていた上海素麺工場。そこの看板役者だった南新地が、『劇衆 海鮮問屋 南組』を主宰し、旗揚げ公演を行う。いろんな劇団、バックグラウンドをもつ人々が集まったユニットをまとめて、自らも役者として意気込む南新地に現在の心境を聞いてみた。
♦今回の旗揚げの動機は?
今までテント芝居で一役者としてかかわってきたものが、役者の肉体だけでどれだけ表現できるのかということに挑みたい。私はテントから出発したけど、テントにいるということは、母胎の中にいるような心地よさがあり、そしてそれを突き破るような開放感がたまらなく気持ちよかった。本物の海を背負ってたつと自分が一回りも二回りも大きくなれたような気がしていた。しかし、自然のもつ本物のパワーに負けてしまい、海という状況に私が存在しえなくなるという危機を孕んでいた。海がないという空間で、今回スカラエスパシオ・・・。都市の空間に斬り込んでいこうと思う。自然のもつパワーに負けない自分を発見したとき、私はやはりテントに戻りたい。ですから、今回の旗揚げは、テントに帰るための旅といえるかもしれません。
♦母胎に回帰する願望があるのですか?
ないとはいえませんね。
♦今の芝居の現状について感じることは?
今の芝居はやっている側と観る側の距離感がありすぎて、面白くないと思うことがあるんです。その距離感をいかに縮めるか、そして芝居ごとじゃないリアリズムをどれだけ打ち出せるか・・・。ですから、私にとって役者は必然でなければならないと考える。その必然性というのは、役者のためこみが肉体的にも精神的にも、観客を超えたものでなければならないということ。役者として観客を魅了できるかどうかは、自分が私生活においてどれだけ(悔しさや悲しさなどの思いを)ためこみができるか、そして、一つの舞台に立ったときに、そのためこみがパワーとなって表現できるかということにかかっている。思うに私生活と芝居は180度表裏の世界でしか存在しない。観客が、同次元の人間が演じるのを観ても面白くないでしょう。役者を誘うときも、芝居をやるかやらないかだけが決め手で、役者の経歴などなんら必要ない。芝居は一回きりのものだから、台詞ひとつに魂が入れられればいい。日常で解消できないエネルギーが放出できる場所が舞台じゃないか、見られることで人間復興したいという人間が集まってきているのだと思う。芝居の原点はやはり河原者だ。だから単なるポーズではだめ。芝居をサークル的にやったり、タレントになるための一段階なら時間の無駄。ファッション化した芝居がまかり通っている現状に「ケリを入れてやろう。」という気持ちがある。
南さんにとって芝居とは?
♦私にとって芝居とは、生きざまそのものである。私の芝居のテーマは「流民。」役者を流民とするならば、板一枚の舞台の上が役者にとって心安らぐ場所だと思っています。私の場合、唯一自分の全てをさらけだせる世界ですね。
2014年 チラシの裏面に掲載
旗揚げから23年、河原者として芝居をしてまいりました。しかし、公演のたびに試練と後悔のくりかえし、満足することはありませんでした。
人間の想像力は、宇宙のように限りなく果てしない。また、それにかける情熱も果てしない。
公演ごとに作り上げる虚構の世界は、千秋楽と共に消え失せ、儚い夢のように過ぎ去っていく。そしてまた・・・。
だからこそ、一瞬一瞬の輝きを求めて皆様に喜んでもらえる舞台づくりに日々精進してまいりたいと思っております。皆様のご支援のほどよろしくお願いいたします。
南 新地